向井と岸田―――ⅢとNIKKI | discord

向井と岸田―――ⅢとNIKKI

 ここ1週間、ハマりにハマっているアルバムがある。
 ZAZEN BOYZの『Ⅲ』だ。

 完成したようで、送ってもらいました。
 ぶっ飛ぶわ。
 それこそナンバーガール時代から毎回、向井はぶっ飛ばせてくれる。それはメロディから、声から、何よりディストーション・ギターから、そして音楽という名のすべての「間合い」の絶妙な発狂から、彼しか持っていけないやり方でぶっ飛ばせてくれる。
 向井のルーツにプリンスがいるのは有名な話で、彼の金属的なロックに腰の据わったファンクとセクシャルなエッセンスが入るのは多分にそういうところからだ。前作にあたる『Ⅱ』はそのロックとファンクとポップのバランスが異常によいロック・アルバムだった。今回はね、それとも全然違う。あんまバランスは良くないと思うんだ、これ。しかし、バランスを超えた発狂と洗練が詰まっているんだ。発狂はすげえ発狂しているし、洗練されているのはとことん絹のようなアレンジで洗練されまくっている。その極点美というべきなのか、すげえ放熱しているのだ。特に中盤がいい。発狂も洗練も、すべてをバンドのグルーヴが支配していて、今、こんな「猛獣使い」のようなロック・バンドはどこ探してもいないんじゃないか?と震えてくるんだよね。
 このアルバムは、絶対に体験すべきだ。ロックの定めを超えたロック・アルバムだ。

 くるりの『NIKKI』も語りたい。

 僕は、いや、僕以上にいろいろなジャーナリストがくるりとZAZENを、そして岸田と向井を相対させて語る。みんなどういうつもりなんだろうな?
 僕はこの二人の音楽性を真逆なものとして受けとめ、そして楽しんでいる。綺麗なまでに真逆なものとして感じられるのだ。
 向井のところで書いた言葉を使うなら「発狂」と「洗練」のバランスだ。向井は醒めているならではの発狂が大きな世界観を描き出し、その中で自然とポップという名の洗練さがいろいろなものを包んでいく。
 片や岸田は、あまり醒めていないアーティストだと思う。彼は基本的にいつでも無我夢中なアーティストなのだ。無我夢中じゃないときの彼は本当にからっぽで、満タンかガス欠かのどっちかしかないクリエイターだなぁと、個人的に思っている。
 だから岸田はその無我夢中になっているものを何とか形にしようと整理するのが上手だ。だから彼の音楽は発狂というより洗練さが際立っている。洗練された世界のネジを巻くために発狂エキスを降りかける感じ。だから彼の作るくるりのアルバムは毎回、コンセプトがはっきりと聴こえてくる。

『NIKKI』は最初、「なんだかわけがわからんアルバムだなあ」と思っていた。世間が並べる「最高傑作」や「すげえロック・アルバム」という言葉が自分の中では浮いて浮いてまったく共感できなかった。それは多分、これを聴くとすぐに「ボ~っとしてしまう」からだったのだと思う。なんかすごいボーっとするんだ。耳の奥で貝の中から聴こえてくる幻聴のような、そんな感じがしていたのだ。このアルバムを聴いていると、まるで冬の海に大切な人と二人でいるような、「寂しくてしかたがないからこそ感じられる、絶対的な幸福感」が迫ってくるのだった。
 しかし、聴いているうちに幻聴のように感じられたアルバムが、どんどん「超実体」として聴こえてくるようになった。それがくるりの素晴らしいアレンジ能力によるものなのかどうかはわからない。たしかにこのアルバムも今までのアルバムに勝るとも劣らない洗練のレベルが聴こえてくるのだが、その洗練のベクトルは主に「サウンド」に向けられている気がするのだ。
 じゃあ、曲は何なんだ?ということになる。曲はね、「LOVE」だと思うんだ。どしようもなくLOVEしているメロディとハーモニーだと思うんだ。岸田がここまでLOVEを当為なものとしてソング・ライティングしたのは初めてなのではないか? そんな迷いがない無上のメロディが聴こえてくるのだ。洗練させることすらできない、LOVEの純粋さに魅せられたメロディとハーモニー。
 心がしびれるアルバムだ。今、岸田に会うと恋してしまいそうだ。
 みんな、このアルバムを聴くと恋してしまうんじゃないかな。
 切ないほど幸せな、残酷なほど心が魅せられていくあの感じ。
 恋の病が蔓延する、ある意味危険なアルバムだ。ソロになったジョン・レノンをどこかで彷彿とさせるアルバムの気がしてならない。